表現の究極の目的が世界にインパクトを与えることだとすると、その反響を受ける覚悟が必要になる。
情報共有の高速化は集中的な「殺到」と圧倒的な「閑散」を産み出している。
テレビの前では何もしないでいられるが、ネットの前では「何かしろ」と強要されているような気が少しする。
今朝、iPhone6を拾った。あっ、そんで交番直行!持ちやすいということは落としやすいということなのね。
本当に楽しそうな姿を見ているとなんだか嬉しくなってしまうのてす。話す言葉は違っても。
僕の中で「個人的な感性」と「社会的な感性」がにらみあってるよ。
「堂々たる嘘つき」と「しどろもどろの正直者」どっちを信じるか?どっちになりたいか?
舞台に上がるのが厭で、舞台裏にいたら、ドキュメンタリー撮影用のカメラに映ってしまった。
アップグレードには、なるほどと思うものと迷惑なものがある。
いつも気持ちのいい息ができるところを探しているんだね。
少し前、あちらこちらに蝉の穴があった公園の道はいま、木の実が敷き詰められている
自分にしかわからないのだが、自分に何が起こっているのかを理解するのは難しい。
いちばんツイてない時ほど、学べることは多い。
新しい時代に適応するための革命と昔に戻るための革命がある。
なんだか気分が乗らないときは「絶景」って画像検索してみるといいよ!
「面倒くさい」と思うときは「疲れている」時が多い。
すれ違う人の数だけ「ミステリー」がある。
「作品」と「生い立ち」と「感動」と「売上」の微妙な関係
世の中、変な人がいないと成り立たないのだ。
何でそんなこと始めたのか、その時の夢とか、情熱とか。
普通、「冒険」ができるのは「余裕」があるときだ。
ひとつの表現が、人に伝わりいろいろな意味を持っていく。
様々な意見を集めて比較検討するにはそれなりに時間がかかる。
病的な非凡の鮮烈と平凡の積み重ねの卓越
さぼるときは堂々とさぼろう。
ものが売れる理由を個人的な感覚で 理解しようとするのは危険だ。
「表現」の「役割」ってなんなんだろう?
「世のため、人のため」、「価値」や「正義」や「感動」までもが、「時代」によって変わってしまう。
みんな、「自分は正しい」と言いたがるけど、そこに「自信」があるかどうかは疑問だ。